[特集]産地・ブランドで選ぶ
悠久の歴史、絶え間なき研鑽、伝承され続ける職人技…作務衣づくりの裏に、名産地名ブランドあり。袖を通す瞬間に感じる、本物のチカラをご覧あれ。
ブランド紹介目次
工夫と先取の気性から生まれた「桐生織」。
桐生は江戸時代から織物都市として発展を見せ、その影響で、堺、京都、近江、名古屋、江戸などの商人、関東、甲信越、能登の職人などが多数行き交い、華やかな桐生文化が形成されてゆきました。
人々の気質は、竹を割ったようなさっぱりとした気性の人が多く、お祭りが大好きでとても陽気。
それが先取の精神とあいまって、工夫、改良、発明が盛んとなり、これが桐生の織物の発展の要因のひとつにもなっています。
その創意工夫から生まれたのが、「西の西陣、東の桐生」とまで言わしめた「桐生織」。技法があり、昭和52年10月、通商産業大臣から伝統的工芸品に認定されています。
認定を受ける条件はなかなか厳しく、
- 主として日常生活に使われるものであること
- 主要工程が手造りであること
- 江戸時代以前からの技術や技法を受け継いでいること
- 江戸時代以前から使われてきた原材料を使用すること
- 生産地が桐生市を中心に近接市町村にまたがり、織物の「産地」を形成していること
とされ、長い歴史につちかわれた、真の伝統工芸でなければ受けることができない貴重な織であることが分かります。
絶え間なき技術の研鑽により磨かれ続けた「桐生織」。
その存在を前にしたとき、装いとしてまとってみたくなるのは、桐生織りが秘めたドラマの成せる技なのでしょうか。
洋の素材で和の表情を出したデニム作務衣。
「作務衣進化論」を提唱している伝統芸術を着る会は、染め、織などの進化に加え、新素材の採用にも挑戦的。その如実な例が、洋カジュアルの代表的な素材ともいえるデニムでした。
作務衣にデニム素材とは…と、発表当初はスタッフの中にも危惧する声がありましたが、それが杞憂であったことは、現在のデニム作務衣ブームを見れば一目瞭然。
着るだけで若々しくなれる、軽くて着心地が実にいい、まるで10歳は若返るようだ…と、人気はますますうなぎ昇り。中には何枚もまとめ買いされる愛好家の方もおり、通称“デニム派”と呼ばれています。
若者たちの間では当たり前の存在になっているデニムやジーンズ。ですから彼らが着ている姿を巷で見ても、別に何の感慨も湧きませんが、それが大人の男となると話は別。
背筋を伸ばし、颯爽と若々しく着こなして、街を闊歩する姿を見かけると、着こなすうちに味わいの深まってゆくデニムやジーンズは、年齢や経験を重ねて、酸いも甘いも噛み分けた大人にこそ似合うのではないかと、思わず嬉しくなってしまいます。
そんなことも要因なのでしょうか。当会のデニム作務衣は、季節を問わず大人気。それも心身ともにはつらつとして、粋なエネルギーに満ちた方々が多い証拠だと、またまた嬉しい限りです。
近江麻ちぢみのふる里、近江路を行く。
昔の人々は、琵琶湖のことを「近江の海」と呼んだ。
モヤのかかった日は対岸が見えず、まるで海を見ているような錯覚におそわれたからだ。
織田信長が天下統一を夢みて城を築いた「安土」は、この豊かな大湖・琵琶湖の湖東地方にある。
そして、この湖東地方は、「近江麻ちぢみ」などの特産品を諸国に売り歩いた近江商人発祥の地でもあった。
信長こそ、「近江麻ちぢみ」を諸国に広めた陰の功労者だ。
また、琵琶湖の湖東地方は、近江商人の発祥の地でもある。
とくに、近江八幡・五個荘・日野には、現在も白壁と堀を周囲にめぐらし、白亜の土蔵をもつ豪壮な家屋敷が建ち並び、往時の近江商人の財力と暮らしぶりをしのばせる。
江戸末期から明治初期にかけて活躍した近江商人のルーツは、織田・豊臣時代にまでさかのぼる。
天下統一をめざした織田信長は、商業の振興を図るため、誰でも自由に商売のできる「楽市楽座」を定めた。
近江八幡と五個荘のほぼ中間に位置する安土に築城した信長は、安土城下にも楽市の制を定めたため、各地の商人が集まり、商業が盛んになった。
しかし、本能寺の変で信長が倒れるや、安土の商人たちは、新たに豊臣秀吉が築城した近江八幡に移った。
秀次も商業振興に力を注いだため、近江八幡は自由商業都市として大いに栄えた。
それもつかの間、秀次が秀吉の怒りをかって天正19年(1591年)清洲に移封され、代わって入城した京極高次もわずか5年で大津へ移り、近江八幡は城下町としての機能を失ってしまった。
残された商人たちは、近江八幡だけでは商売にならず、やむなく天秤棒をかついで諸国へ行商に旅立つこととなった。
これが、いわゆる「近江商人」の起こりである。
近江商人たちは、天秤に郷土の特産品を積んで諸国を行商した。
八幡商人は、麻織物・蚊帳・畳表。
五個荘商人は、野洲晒(やすさらし)・高宮布・編笠。
日野商人は、日野椀・日野きれ・薬などなど…。
なかでも、八幡商人が行商した麻織物は、鎌倉時代から愛知川町・秦荘町・五個荘町・多賀町などで織り続けられてきたもので、「近江麻ちぢみ」として親しまれてきた。
特に夏場は、麻独特のひんやりとした感触が汗をかいてもベトつかない点が、諸国の人々に大変よろこばれたという。
近江の商人たちは、故郷の産物をもって諸国に行商に行き、帰りには行く先々の産物を仕入れ、帰りの道中で商いをしながら故郷に戻った。
その工程には、全く無駄がなかったと言われている。